チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

深く知ろう!チャイコフスキーの激動の3年間①

楽曲が何千倍も深くなる、チャイコフスキーの知識!

 

さて、前回の記事から続いて、

 

 

さらに詳しくチャイコフスキー

激動の3年間を解説しています。

 

 

激動の3年間は、

1876年から1878年までの期間で、

 

 

 

当時の世界では、

西欧列強や、アメリカ・ロシア・日本で

産業革命が進み、

 

人々の心や文化が、

これまでの時代とは大きく変わっていった時代でした。

 

 

 

 

 

チャイコフスキー

音楽の仕事についてから10年の中堅レベルの教授で、

 

36~38歳を迎えています。

 

この3年で、

チャイコフスキーは絶頂と絶望を両方経験して、

彼自身の人間性を作り上げていきました。

 

 

まず、35歳で交響曲第3番を作曲します。

このブログで書いた時期です。

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

その次の年から、はじまります。 

 

かっ飛ばし続けた1876年

 

世界三大バレエのひとつ、

バレエ「白鳥の湖」を書き上げます。

 

他にも、

弦楽四重奏曲第3番」

「スラブ行進曲」

フランチェスカ・ダ・リミニ」

 

などなど、

 

チャイコフスキーを代表する人気曲を生み出します。

 

 

仕事量でいえば、

これまでのなかで最高の忙しさです。

 

 

さらに、

作曲家・教授の仕事に加えて、

音楽評論家としての仕事ももらいます。

 

 

この時期に、

ビゼーワーグナーといった、

チャイコフスキーお気に入りの音楽家たちの楽曲に触れています。

 

 

ここまでは楽しい楽しい絶頂ですが、

 

 

チャイコフスキー特有のうつ病や、

浪費癖がでてくるようになり、

 

それがチャイコフスキーの心をむしばんでいきます。

 

チャイコフスキーが同性愛で

悩んでいたというのも、この時期ではないかと噂されています。

 

 

 

しかし、

ここでチャイコフスキーは救われます。

 

 

年末に、

 

フォン・メック夫人から、手紙がきました。

 

チャイコフスキーが若くして失った母のようでもあり、

そして、多額の財産を抱えている女性です。

 

彼女とは一度も会うことはなく、

文通だけでの中でしたが、

長い間、チャイコフスキーの心の支えになります。

 

 

 

「最重要な転機1877年」と「進化を遂げた1878年

 

 チャイコフスキーの激動の3年間は、

 

ここからクライマックスを迎えます。