チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

チャイコフスキーの変わったライフスタイル

精神治療=旅行と作曲

 

チャイコフスキーの精神治療というと堅苦しいので、

 

うつ病メンタルヘルスといいましょう。

 

 

彼にとって、それは作曲と旅行でした。

 

 

彼はこの時期、

メック夫人からの年金を使って、自由すぎる生活をします。

 

 

激動の3年間を越えた休息の時期です。

 

時代は1878年。38歳の後半になります。

 

 

 

「作曲」これまで以上に自由なアイデアを駆使する

 

これは、チャイコフスキー組曲第1番」で詳しく説明しています。

 

彼はこのじき、交響曲タイプの作曲家になるか、

もしくはバレエ音楽や歌劇タイプの作曲家になるか悩んでいました。

 

 

 

どちらを書いても、自分の納得のいく作品になるところ、

 

 

交響曲のような形式的で構成力がものをいう音楽家として生きるか、

 

それとも持ち前のメロディ能力を生かして自由な音楽ジャンルで活躍するか。

 

 

ちょうど迷いながら作曲してるため、

この時期の作品には彼がもっているはずのキレや思い切りがみられません。

 

 

 

「旅行」ひとつのところに長く滞在すると飽きる

 

チャイコフスキーは作曲のほかに、

 

旅行で気分転換をすることで、

うつ病改善をはかっていました。

 

 

フォン・メック夫人がウクライナの別荘を紹介してくれたり、

妹のところにあそびにいったり、

スイスの湖近くに暮らしたりしますが、

 

 

チャイコフスキーは田舎が好きな一方、

あんまりひとつのところに長く滞在することが苦手だったようです。

 

 

そのため、

 

オペラを見に、ドイツ・オーストリア・フランスの都市を回ったり、

 

寒さを避けるために南国イタリアに向かったり、

 

 

とにかくいろんなところを飛び回っていました。

 

 

ちなみに、家は引き払っているので、

実質、お金持ちホームレスです。

 

 

ロシアに帰ってきたときは

 

モスクワ、ペテルブルク、キエフにいる親戚の家や友達の家に

転がり込みます。

 

さらに、フォン・メック夫人に家を貸してもらったりします。

 

 

 

 

 

フォン・メック夫人との珍ルール

 

奇妙なことに、

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の間にはルールがあって、

 

そのひとつは、

 

「お互い直接会ってはいけない」

 

というものでした。

 

 

「????」となるルールですが、

ふたりの間に何があったのでしょうか?

 

 

続きます。