チャイコフスキー・交響曲1番の評価が・・・
最初の傑作「冬の日の幻想」
チャイコフスキーは音楽院を卒業した翌年、
生涯で80の作品を残したうちの
最初の音楽を作曲します。
26歳のとき、
交響曲第1番「冬の日の幻想」です。
この1番「冬の日の幻想」と
53歳のときにつくった6番「悲愴」だけです。
とにかく自分の最大限もてるものをぶちこんだ
自信作として売り出したのでしょう。
で、評価はどうだったのか?
最悪でした。
のちに、チャイコフスキーの得意技となる
たたみかけるようなオーケストレーションは、
このときはまだ
「しつっこい!!メロディ」
そして、そのほかにも
すこし気合いの入りすぎたところが
周囲のひとたちに悪評だったようです。
チャイコフスキーの「いきなり交響曲1番」
さらに、
いちばん最初の作曲で交響曲に挑戦するということ自体が
ものすごいチャレンジでした。
多くの作曲家は、ベートーベンの交響曲があまりにも完成度が高すぎたため、
「交響曲は、自分のレベルが上がってから書き始めるもの」
という価値観だたからです。
それをいきなり交響曲に着手するあたり、
チャイコフスキーの独特な性格が読み取れます。
(というよりか、周囲の期待にこたえるために、
交響曲で結果を出したかったのではないでしょうか)
交響曲1番を1年かけて書き直す
チャイコフスキーのかつての恩師の弟に、
ニコライという人がいて、
いわば、音楽教師として、
チャイコフスキーの大先輩にあたる人です。
かれは、ニコライの家に居候させてもらっていました。
彼の最初の交響曲を
ニコライ先生にみせたところ、
「こんな交響曲なら、発表するんじゃねえ」
と怒られます。
自信作をボロクソにけなされたチャイコフスキーは
ものすごい落ち込みますが、
交響曲1番を書き直すことにします。
そして、1年後、
交響曲第1番「改」(このブログでそう呼ぶだけです)
として、再度、ニコライにみせに行きました。
なにしろ天才チャイコフスキーが
1年もかけて書き直したのですから傑作になったに違いありません。
評価はどうだったかというと、
ニコライ
「ボツ、以上。」
2年後に初演で大成功
それでも、
ましな曲になったということで、
ニコライ先生のゴーサインがでて
ついに初演をします。
この初演は大成功をおさめます。
自分の曲の演奏についての感想をよく手紙に書いているのですが、
「お客さんがとても喜んだくれた初演だった」
と書いています。
この初演の指揮をつとめたのが、
一番厳しい批判をくれていたニコライ先生です。
感謝の気持ちをこめて、この曲をニコライ先生に献呈します。
チャイコフスキーが周囲の人に恵まれていたことを感じる
温かいエピソードのひとつでしょう。
ちなみに、
ニコライ先生はまだこの曲にいい評価をくれず、
チャイコフスキーは10年後に、交響曲1番をまた書き直すことになります。
10年後のチャイコフスキー
ここからチャイコフスキーはまたしても、ニコライ先生との関係で悩みます。
彼の音楽性は進み過ぎていたのです。
上司には一見へんな発想に見えたのです。
隠れた名曲を紹介!
この年、チャイコフスキーは
意外と知られていない名曲を出します。
この20年後にも、「この曲は私の中でも自信作だ」と言うほどの曲を
デビュー年に書き上げています。