白鳥の湖の初演・チャイコフスキーの苦難
「白鳥の湖」に憧れのすべてを注ぎ込む
前回記事はこちらです。
あますところなく語っています。
1876年、36歳で「白鳥の湖」を作曲したチャイコフスキーは、
ドイツで楽劇の神様とあがめられていた作曲家・ワーグナーの影響を受けていました。
ワーグナーの得意技に「ライトモティーフ」というものがあります。
簡単に言うと、
登場人物や感情ごとにテーマ音楽をつくり、
(ゴジラが登場するときに、「ゴジラのテーマ」が流れたり、鼻から牛乳をこぼしたときに、バッハの「ちゃらり~ちゃらりらり~ら~」が流れたり)
それらを組み合わせて、
楽曲全体をつくっていく手法です。
これが決まると、
楽曲の統一感がはっきりしたものになり、
さらに、モティーフの組み合わせが聴き取れるようになると、
それこそ中毒性を感じるようになります。
チャイコフスキーはこの「ライトモティーフ」に感動し、
これをバレエ音楽に取り入れてしまいます。
さらに、チャイコフスキーのもつ旋律や、ドイツ流の構成力を駆使して、
それ以上の楽曲に育てていきます。
おかげで、オーケストレーション的にとんでもない傑作に仕上がりました。
それが、このバレエの魅力のひとつでもあり、
一方で、悲劇のはじまりでした。
音楽性がなかったこれまでのバレエ音楽
これほどすごい芸術作品としてつくられた「白鳥の湖」ですが、
当時の人からすれば「なんで、そこまでするんだ?」という感じで
かなり批判を受けました。
当時のバレエ音楽は、
美しい踊りこそあれ、曲は単調にやってくれたらいいや~
くらいの感じでした。
チャイコフスキーの本格的な芸術作品が好まれるジャンルではありませんでした。
彼の死んだ直後に、やっと評価されるようになります。
「もうバレエ音楽は書かない!!」
評価されずに傷ついたチャイコフスキーは
これから次回作の「眠れる森の美女」をつくるまで、
10年以上、バレエ音楽をつくろうとはしませんでした。
しかし、その久しぶりの作品で
またも傑作を生みだしてしまうのがチャイコフスキーのすごいところです。