チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

交響曲第4番・チャイコフスキー、ついに真の作曲家へ

チャイコフスキー交響曲第4番をつくりあげた秘訣

 

チャイコフスキーはこの交響曲第4番をもって、

真の作曲家としての道を歩みだしたといわれています。

 

なぜなら、この時期に

チャイコフスキーに経済援助をしてくれる未亡人があらわれたからです。

 

これによって、チャイコフスキー

教授としての仕事の片手間ではなく、

 

作曲活動をメインにもっていくことができるようになりました。

(一応、教授としての仕事も続けてはいます)

 

つまり、

本当に作曲に集中できる環境になってから、

はじめての大曲が、交響曲第4番というわけです。

 

 

音楽家と経済事情

 

 

どういうことかというと、

 

 

作曲家というのは基本的にフリーランスなお仕事です。

 

個人事業主として、独立して活動するのがふつうでした。

 

 

 

ベートーベンの場合は特にそうで、

 

かれ以降の作曲家はフリーランスとして作曲活動をすることが多かったのです。

 

 

 

どういうことかというと、

 

収入的には当たるときもあれば、はずれるときもある。

 

 

シューベルトのように万年金欠だった作曲家もいれば、

 

パトロンを得て、経済的な余裕を確保して作曲活動をする人も多くいました。

 

そして、有名になってから、大学教授に招かれたり、

音楽協会の顧問になったり、という道がありました。

 

 

 

 

チャイコフスキーの場合はその点ちょっと特殊で、

 

 

さいしょから音楽院の教授として生活していました。

 

ロシア皇室のもとにある音楽院ですから、

ある意味、公務員として働いていました。

 

 

 

安定はしていますが、

教師としての日々の仕事をこなすことに

力を割かなければなりません。

 

 

これまではその忙しい合間をぬって、

いろんな人のために作曲活動をしてきたチャイコフスキーでした。

 

 

 

しかし、経済援助が得られるようになると、

徐々に作曲をメインにできるようになったというわけです。

 

 

 

交響曲第4番をもっと詳しく知りたい!!

もし、チャイコフスキーが第6番「悲愴」を作曲していなかったら、

 

この第4番がチャイコフスキーの代表作となっていたかもしれません。

 

 

そんな曲ができるまでチャイコフスキーはどんな生き方をしていったのか?

 

その続きはこちら!

 

 

パトロンはどんな人??

さて、チャイコフスキーが飛躍するのに

なくてはならなかったパトロンですが、

 

 

いったいその人はどんな人だったのでしょうか?

 

 

のちのネタバレも含めながら、

次回記事で紹介していきます