交響曲第2番「小ロシア」③・チャイコフスキーVSロシア五人組ふたたび
チャイコフスキーとロシア五人組の再会
32歳で交響曲第2番「小ロシア」を作曲したチャイコフスキーは
その曲を引っ提げて、ペテルブルグへ向かいます。
当時の首都はモスクワではなく、ペテルブルクだったので、
より大きな成功を求めて、大きなステージへもっていたのでしょう。
そのときに、ペテルブルグの知り合い
ロシア五人組が登場します。
このときは、
と会うことになりました。
彼は五人組のなかでは、
いちばんドイツやフランスの理論を勉強した音楽家で、
そうした洗練された技法のうえに、ロシア音楽をもりつけようと考えている人だったため、
チャイコフスキーと近いものを持っていました。
そして、リムスキー・コルサコフは
チャイコフスキーの楽譜をみるなり、「こんなすごい作品があるのか!!」と驚き、
ぜひともこれを演奏してみてほしいと頼みます。
リムスキー・コルサコフのお気に入り
1873年1月7日、チャイコフスキーは、リムスキー=コルサコフのサンクトペテルブルクの自宅における集会で終楽章を披露しました。
弟に宛ててチャイコフスキーは感想の手紙を送っています。
「全員が熱中のあまりに私に口々に言い立てた。――リムスキー=コルサコフ夫人は涙を浮かべて、自分に2台ピアノ用の編曲を作らせてほしいと頼んできた」
この集会には、
ロシア五人組のなかでも、激しくロシア音楽を極めようとしていたムソルグスキーやバラキレフは来ていませんでした。
しかしながら、リムスキー=コルサコフ夫妻のほかに、ボロディンも来ていました。
リムスキー・コルサコフとボロディンは、チャイコフスキーの音楽に共感していました。
(最後の一人キューイは一番存在感がうすいので、よくわかりません・・・)