チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

チャイコフスキーがブラームスたちと闘った人生を10分にまとめた

「ブラ―ムスもワーグナーロシア五人組も、つまらん!!」

 

ブラームスワーグナーロシア五人組も、つまらん!

 

ほんとの音楽ってやつがわかってない!!」

 

 

22歳で音楽の道に入った

青年ピョートル・チャイコフスキーはこう叫びました。

 

 

それまでの10年間、法律学生、法律官僚として過ごし、

趣味は、豪遊と浪費と旅行、

 

そのくせ引っ込み思案で内向的な性格だった彼は、

 

 

当時、ヨーロッパ的な大スターであった、

ブラームスワーグナーという大音楽家の作品に

ものたりなさを覚えていました。

 

 

しかも、チャイコフスキーが住んでいたのは、

文化的に20年くらい遅れていたド田舎・ロシアという帝国で、

 

そのなかでもさらに田舎のウクライナ地方から、

首都ペテルブルグに上京したばかりの青年にすぎませんでした。

 

 

しかし、

彼は、22歳で音楽の道にはいった10年後には、

アメリカ公演も含め、世界的な大音楽家、ロシアで間違いなくナンバーワンの音楽家に成長します。

 

 

 

なぜ、チャイコフスキーにそこまでの大飛躍できたのか?

 

その人生の秘密を探っていきたいと思います。

 

 

チャイコフスキーの音楽性

ロシア五人組よ!これが本当のロシア音楽だ!」

チャイコフスキーのなかに蓄積されたロシア民謡

 

チャイコフスキーは、26歳で作曲を始めた当初から、

かなりユニークな曲作りをする作曲家でした。

 

 

ロシア風の民謡がちりばめられた交響曲ピアノ曲を次々と発表し、

 

マジメな仲間の音楽家からは

「え?ちょっとこれまでの音楽とちがってない??」

とドン引きされたり、理解されなかったり。

 

 

一方で、

当時、音楽の中心だったドイツに対抗して、

ロシア音楽を盛り上げようとする「ロシア五人組」という人たちがいました。

 

ロシア五人組①「なんか~、もっとロシアっぽい旋律いれてこうぜ~」

 

 

②「ねえ、知ってる?チャイコフスキーっていうやつが最近出てきたらしいんだけどさ~。どうも、そいつの音楽がなかなかとんがってるらしいよ!!」

 

 

①「あ、そんなやついたんだ!でも、ま、おれらのロシア音楽にはかなわないだろうけどな」

 

 

②「まあ、そうかもしれないけどね~。でも、おれらの音楽も欠点はいくつもあるじゃん。ドイツ音楽みたいに、格式があまりしっかりしてなかったりとか・・・」

 

 

①「おい!それ言うな!!」

 

 

②「だからさ、たまには他のロシア音楽の使い手がどんなことやってるのか。

お互いに聴いて研究してもいいかな、て思うんだよね」

 

 

①「ま、そこまで言うなら・・・行くか!!」

 

 

彼らは、チャイコフスキーの楽曲を聴くことにしました。

 

~~~~

 

五人組「チャイコフスキー、まじやばい!!

 

え?ロシア音楽っぽい感じなのに、しっかりとドイツ音楽に対抗できるだけの構成力が宿ってるじゃん!!!

 

 

なにこれ!!天才????」

 

 

チャイコフスキー「いや・・・というよりも、僕はドイツ音楽みたいなしっかりとした音楽が好きで、そうしたものを追求してるだけなんだけど・・・」

 

 

五人組「たしかにそうなんだけど、でもドイツとはまた違うんだよ!どうやったの??」

 

チャイコフスキー「いや、ふつうに僕の好きな曲をつくっただけだけど・・・」

 

 

 

 

 

後世の評論家「チャイコフスキーロシア民謡を使ったのではなく、ロシアの精神で曲をつくっただけだ!」

 

 

チャイコフスキーロシア五人組の「いかにもロシア音楽!」という曲風をあんまりよく思っておらず、

ただ、ロシアの精神にもとづいた作曲を心がけました。

いわば、ドイツ音楽という伝統は大事にしつつも、そこに強力な隠し味としてロシア音楽の心を組み込みました。

 

 

それこそが、本当の音楽のあり方だと思っていたからでしょう。

 

 

ロシア近代音楽の父はグリンカという人ですが、

 

本格的なロシア近代音楽の創始者チャイコフスキーとされています。

 

 

 

 

ブラームスよ!音楽は人を幸せにするためにあるのだ!」

 

チャイコフスキーは、

当時ドイツ音楽の二大スターと言われていた

ブラームスワーグナーの後輩にあたります。

 

 

じっさいにブラームスとは会ったこともあります。

 

 

チャイコフスキーブラームス

内向的な性格や、繊細な心理描写、

人気がでてからは、社会慈善活動を積極的に行うなど、

 

似ているところが多くあるのですが

仲はよかったのでしょうか?

 

チャイコフスキー

ブラームスの音楽が有名らしいな・・・?」

 

職場であったモスクワ音楽院の同僚

「はい!そりゃ、ブラームスっていったら、ドイツの二大作曲家の一人ですし、

あのベートーベンの正当な後継者としても名高い人ですから!!

 

彼の交響曲第1番知ってます?」

 

チャイコフスキー

「ああ、たしかドイツに行ったときにプログラムで見たな~」

 

同僚

「実はあの曲、ベートーベンの『第九』に次ぐ、

ベートーベンの交響曲第10番のようだって言われてるんですって!」

 

 

チャイコフスキー

「へえ~、まあ構成力はみごとだったし、ベートーベンの交響曲第3番のような格式高くも、意外性もある、

 

それに第5番「運命」のような爽快感もみごとだ!

 

 

ただ、どうも『第九』じゃないよな~。ほんとにそう言われてるの??」

 

 

同僚

「ほんとですって!!・・・ちょっと待ってくださいね。たしか、ハンス・フォン・ビューローさんが言ってたんですから。彼の評論を探してみます!!」

 

チャイコフスキー

「おい、ビューローさんって言ったか?

 

俺の恩人のビューローさんがそんなことを簡単にいうか!!

 

ちゃんと正確な言葉を探して来い!!」

 

チャイコフスキーは自信作ピアノ協奏曲第1番がまわりに受け入れなかったときに、

唯一、ハンス・フォン・ビューローというドイツの名指揮者に受け入れてもらって、アメリカでこの曲をデビューさせてもらった恩があるのです)

 

同僚

「あの・・・チャイコフスキーさん・・・」

 

チャイコフスキー

「おお、みつかったか??」

 

 

同僚

「はい、チャイコフスキーさんの言う通りでした。

 

 

読みますね。

 

ブラームス交響曲は、ベートーベンの交響曲第10番と言うことができる”」

 

 

チャイコフスキー

「え?(そのままやん!!ビューローさん、やっぱりその程度の人なのか?)」

 

同僚

「で驚きましたよ~。

 

ここのあと、こう続くんです!!

 

”ただし、その交響曲は、ベートーベンの第2番と第3番の間がふさわしい”

 

 

チャイコフスキーさん!すごいですよ!!

 

たしかに、ブラームス交響曲第1番は、格式高い構成をしていますが、

古典のような音楽に戻りすぎていて、ベートーベンの破壊力というか垢ぬけた感じが

ちょっとないような感じはしますね!!」

 

チャイコフスキー

「まあ、そうだろう・・・

 

 

ブラームスの音楽はそういうところがある。

 

 

それに、彼は音楽をわかっていない気がする。少なくとも、私とは目指すものが違う。

 

 

 

ブラームスの音楽は、冷たく暗い。ただそれだけだ。」

 

 

同僚

「たしかに、ブラームスの音楽に、暗さは常にあると思います。

でも、それが彼のよさでもないでしょうか?」

 

チャイコフスキー

「いや、たしかに暗さや冷たさを表現してもいい。

 

でも、全体がそれではだめだ!!

 

 

音楽は人を幸せにするものでなくてはならない。

 

たとえ、暗い世界を描いたとしても、

そこには少しでも希望や発見がなければならないのだ」

 

 

 

チャイコフスキーブラームスに対する評価はこのようなもので、

わりと辛らつでした。

 

それにしても、

音楽史上もっとも絶望的な曲『交響曲第6番「悲愴」』を残したチャイコフスキーでも、やはりその思いは幸せな音楽をつくることに向けられていたのですね。

 

 

 

ワーグナーよ!人の感情はもっと繊細で深いのだ!」

 

当時のドイツ(日本では明治維新のころ)では、

 

ワーグナーブラームスが二大巨頭として君臨していました。

 

そこに北のチャレンジャー・チャイコフスキーが参戦します。

 

 

 

彼らに共通するのは、

ベートーベンに対する尊敬です。

 

ベートーベンの作り上げた交響曲に対して、

 

ブラームスは第10番目をつくる!!と、

あくまでベートーベンの様式を極めようとしました。

 

 

チャイコフスキー

基本はベートーベンの構成力に追随しながら、

そこにロシア音楽をブレンドしてみたい!と考えました。

 

 

③そして、最後のワーグナーは、

『第九』を超える壮大な人間ドラマを音楽を使って作り上げる!

と宣言し、三人のなかではもっとも派手に活動します。

 

 

 

そんなワーグナーに対して

 

チャイコフスキーはどう思っていたのでしょうか?

 

 

 

チャイコフスキー

「久々にドイツにきたし、やっぱオペラ見ようかな~~」

 

劇場のスタッフ

「いらっしゃいませ!

今宵は、バイロイト音楽祭にようこそお越しくださいました!

いまドイツでもっとも熱狂的なオペラをどうぞお楽しみください!」

 

 

チャイコフスキー

「ああ、ありがとう。

 

・・・ところで、このバイロイト音楽祭は、

ワーグナーの音楽しかやらないと聞いたのだが、

それで人は集まるのだろうか・・・?」

 

 

 

スタッフ

「はい!おっしゃる通り、この音楽祭はワーグナー氏の曲と、たったひとつの他の作曲家の曲しか演奏いたしません。

 

しかし、もうドイツの歌劇では神様のようにあがめられているワーグナー氏ですから、

それはもう、いつも大人気です。

有力な貴族も数多くご来場くださるビッグイベントです!!」

 

 

チャイコフスキー

「そうなのか・・・

神様ねえ・・・

 

 

まあ、ところで聴きたいのだが、

 

「たったひとつの他の作曲家の曲」とはなんだ?」

 

 

スタッフ

「ええ、そちらが

ベートーベンの交響曲第9番です!

 

ワーグナーの音楽活動の原点にして、目標の音楽として、

この曲だけはこの音楽祭でも演奏していいとされています。」

 

 

チャイコフスキー

「へえ。そうか。

 

「第九」のような音楽か・・・

 

いや、

どうも私はワーグナーという男のつくる音楽が苦手でね・・・

 

たしかに、彼の音楽はすばらしい!

 

 

だが、彼の活動はすこしだけやりすぎじゃないかと思う」

 

 

 

スタッフ

「え??あ、そうお思いですか・・・」

 

 

チャイコフスキー

「宗教的なまでに、人々を熱狂させる音楽が

はたして本当に善いものなのか?

 

考えたことはあるかね?」

 

 

スタッフ

ワーグナー氏の曲は、悪いものだと?」

 

 

チャイコフスキー

「いえ、そうではない。

 

ただ、危険なのだ!

 

音楽家とは真理を追い求めるものだが、

どうも私には彼が求めているのはただのフィクションにしか見えない。

 

 

並みの作家がそれをするのは問題ない。

ただの娯楽だ。

 

 

しかし、ワーグナーのように優秀な音楽家がそれをしてしまうと、

人々はニセモノの世界に支配され続けてしまうのではないだろうか?」

 

 

スタッフ

ワーグナー氏の音楽はニセモノですって??!!」

 

 

チャイコフスキー

「誤解をせずに聴いてもらいたい。

 

わたしは、ワーグナーの音楽は本物だと思うし、

彼の劇もすばらしい。

 

ただ、私ならば、もっと複雑で、深い人間心理を描写して、

この世界の真実を映し出すような作品を世に出す。

 

その点、彼は、人々に受け入れられやすいだけの娯楽を

流しているだけではないのか?」

 

 

スタッフ

「・・・・もう劇の時間です。あなたはいったい誰なんですか!!」

 

 

チャイコフスキー

ロシア帝国モスクワ音楽院教授・ピョートル・チャイコフスキーだ!」

 

スタッフ

「・・・え、・・・・チャイコフスキー・・!?」

 

チャイコフスキー

「では、失礼・・・」

 

 

チャイコフスキーは割と辛らつに極端に

他の音楽家を批判することがあるのですが、

 

ワーグナーに対しては特に厳しかったようです。

 

 

しかし、彼のバレエ作品やオペラには

明らかにワーグナーから借り受けてきたような痕跡が見られます。

 

実は、激しい批判のうらで尊敬もしていた。

尊敬しているからこそ、もっと完璧な音楽家ワーグナーとして

いてほしかったのかもしれません。

 

 

 

 

音楽でわかる!チャイコフスキーとブラームスの宿命の関係

活躍した分野は違うが、得意なスキルは似てる

 

チャイコフスキーブラームスは主な活動分野もかなり違いました。

 

チャイコフスキーは音楽界ではじめて、

バレエ音楽に芸術性を吹き込んだり、

 

ロシア民謡クラシック音楽として取り入れました。

 

わりと目新しい革新的なことが中心でした。

 

 

 

ブラームスは、

あくまで交響曲、ベートーベンの世界をどう極めるか、

モーツァルトやバッハも含めたドイツ音楽の伝統に忠実な音楽を再現できるか、

 

堅く堅く活動した人です。

または、ベートーベンがつくりあげた室内楽の世界でも

かなり活発に動き回ります。

 

 

 

 

ただ、チャイコフスキーブラームスの関係で面白いのは、

彼らは得意なスキルはかなり似ていたということです。

 

 

チャイコフスキーロシア民謡をベースにした歌うようなメロディが印象的な曲を多く残しています。

 

 

一方、ブラームスもあまり注目されてはいないのですが、

彼も歌うような美しい旋律が大得意です。

彼は、交響曲のような堅い壮大な音楽が有名ですが、

その一方で多くの歌曲を残しています。

シューベルトに匹敵するほどの「歌曲の人」と言う評価もあるほどです。

 

 

 

そして、彼らは宿命もおなじようなものを背負っていました。

 

彼らの目の上には常にベートーベンの姿がありました。

特にベートーベンの残した9つの交響曲

 

これを超える交響曲は表れないと言われていた時代のなかで、

なんとかしてベートーベンに対抗しようと音楽家たちはもがいていました。

 

二人はその宿命をかんじていました。

 

 

チャイコフスキーブラームスは、持ち前の「歌うようなメロディ」を少しだけ封印して、

そのうえで、交響曲という分野で勝負します。

交響曲は、構成力が大きくものを言うジャンルです。

 

 

自分のメロディを盛り込みながらも、あくまで全体の構成を重視した曲作りを目指し、

二人は苦闘する宿命をもっていました。

 

しかし、交響曲を離れると一転、

かれら特有の美しいメロディが自由に表現される曲が数多く残されます。

 

 

 

ドイツ音楽≒ヨーロッパ音楽を支えたブラームス

 

当時は、ドイツ音楽がもっとも格式高い音楽とされていて、

ブラームスはその中心的なポジションとして、

ヨーロッパの音楽界を背負っていました。

 

その気負いや責任感が彼の作風を作り上げていったのでしょう。

 

ちゃんとしたものをしっかりとした形式で

作り上げるカンペキ主義が見えます。

 

 

 

しかし、そうしたベートーベン風の音楽から離れると

彼も自由気ままに動き出します。

 

彼の残した歌曲は

どれもシューベルトのように魅力的なメロディに溢れています。

 

 

彼をおおきく成長させたのはドイツ音楽の基礎であり、

ベートーベンの交響曲ですが、

 

しかし、それは彼の発想を縛り付けるものでもあったんですね。

 

 

ロシアから、垢ぬけないメロディで挑戦したチャイコフスキー

 

 

その点、チャイコフスキー

アウトサイダーの音楽でした。

 

ロシア音楽は、当時ヨーロッパの音楽界からはほとんど切り離された、

ド田舎の音楽とされていました。

 

さらに、ロシア国内で人気だったのは、

ちょっと前に流行りだしたイタリアの劇音楽です。

 

 

その状況でチャイコフスキーは、

ドイツのちょっとお堅いイメージもある格式ある音楽を追求します。

 

そして、それがロシア音楽と結びついたらどうなるだろう?

というのを実験するのです。

 

 

 そして、ロシアではじめて成功します。

 

 

圧倒的な才能に、ロシアだけでなく、

ヨーロッパやアメリカが感動しました。

 

 

 

とはいうものの、

やはり交響曲を作曲するときには、

ベートーベンを意識せざるを得ません。

 

ベートーベンを越えることなくして、

交響曲での成功はありえないといわれてきました。

 

 

チャイコフスキーは、交響曲をつくるときは

彼の自由なメロディを制限して、全体の構成に気を配る必要がありました。

 

 

ドイツ音楽に合わせて曲作りをするプレッシャーというものもあったのでしょう。

 

 

ベートーベンの巨大な影に立ち向かった

 

チャイコフスキーブラームスには

宿命的な使命がありました。

 

それは、ベートーベンの遺産である、交響曲にチャレンジするというものでした。

 

そのために、持ち前のメロディ能力をすこし制限して、伝統にそった作曲をする必要がありました。

そこまでしてつくりあげたいものが彼らにはあったのです。

事実、ふたりの交響曲はどれも傑作ぞろいです。

 

 

一方で、交響曲を離れると

純度100%のブラームスチャイコフスキーを聴くことができます。

 

チャイコフスキーのバレエ、ブラームスの歌曲は

どちらも彼らの自信作です。

 

 

お互い、どう思っていたのか?

 

 

チャイコフスキーブラームス

お互いのことをどう思っていたのでしょうか?

 

 

意外すぎる!?チャイコフスキーとブラームスの似た関係

チャイコフスキーブラームスの意外な人間関係とは??

 

わりと似ている同時代のふたり

 

チャイコフスキーブラームスは、

どちらも現代のコンサートでも人気の作曲家です。

 

 

 

ブラームスといえば、

だれも受け継ぐ者がいなかった楽聖ベートーベンの後継者として存在感を放っていますし、

 

チャイコフスキーは、

親しみやすいメロディと壮大な音楽を掛け合わせる実力については、

クラシック音楽家のなかでもトップクラスです。

 

 

 

そんな彼らは同世代の人間としてじっさいに会ったことがありますし、

お互いの作曲を競った仲でもありました。

 

彼らの生きた姿を探ってみましょう。

 

 

音楽歴にはかなりの差がある

 

チャイコフスキーは、

 

1840年生まれ、ロシアの作曲家です。

彼が音楽の世界に入ったのは、

官僚を引退した22歳のときでかなり遅い経歴ですね。

 

子供のときは

名門の法律学校に通っていたというほど、

かなり良い生まれだったようです。

 

 

 

一方の

ブラームスは、

貧しい家の生まれで、

音楽の才能を生かして、はやい時期から稼いでいました。

 

 

彼は

1833年生まれ、ドイツの作曲家です。

 

10代の前半にはピアニストしての活動を始め、

10代後半には、作曲の実力を高めていました。

 

 

 

曲がった性格もいい性格も似ている

 

チャイコフスキーブラームスは性格がかなり独特だったという点で似ています。

 

 

チャイコフスキーはめちゃくちゃ繊細で、よくうつ病になっていました。

生涯で12回のうつ病を経験したとか・・・

 

晩年はロシアの音楽界を指導する立場になりますが、

中年のころまでは引っ込み思案がはげしく、人とのかかわりを嫌っていたようです。

 

さらに、浪費をするクセがあり、

莫大な収入を得ていても常に金欠だったそうです。

 

ひとつのところにとどまっているのが嫌いで

異常なほど旅行が好きだったといわれています。

 

 

ただ、弱い立場にあるものへの思いやりが人一倍強い人でした。

 

彼は、同性愛者や小動物といった社会的に認められていないものに意識をむけていました。

 

 

 

一方のブラームスはかなりのひねくれものと言われています。

 

若いころはかなりのイケメンだったのですが、

そんなモテる自分が嫌で、わざと太ったり、身なりを汚くしていたそうです。

 

さらに、自分の作品を作った意図が知られたり、

自分の努力を他の人に見られるのが大っ嫌いで、

 

彼の曲のスケッチはほとんどブラームス自身の手で焼かれています。

 

 

 

 

しかし、ものすごいいい人です。

彼は、音楽の世界で売れるようになってからも質素な生活を続け、

 

余ったお金のほとんどを若い音楽家たちに寄付していたようです。

 

 

ブラームスが支援した人物でもっとも有名になったのは、

チャイコフスキーに並ぶ天才・チェコの音楽家ドヴォルザークです。

 

 

ブラームスなくしてドヴォルザークは売れなかったのです。

 

彼は他にもたくさんの社会貢献をしていて、

慈善の人という印象が強いのです。

 

 

音楽的にはどんな違いがあるのか?

 

 

チャイコフスキーブラームスは生まれた境遇は違っても、

性格はかなり似ていることがわかりました。

 

では、かれらが音楽で語るとどんな違いがあるのでしょうか。

 

 

 

 

 

「組曲第1番」チャイコフスキー・修行編に突入!!

チャイコフスキー組曲第1番」

 

彼なりの試行錯誤を反映した曲です。

 

 

バレエ音楽のような自由で美しいメロディを研究して、

 

でも、同時に壮大で形式の整った交響曲にも挑戦して、

 

 

どちらも詰め込みすぎた結果、よくわからないぼんやりとした作品になりました。

 

 

彼なりに悩みながら、芸術を突き詰めていっている時の曲です。

 

 

 

 自分の実験をやりたいだけやりきった曲

 

 

 

チャイコフスキーは、交響曲第4番と第5番の間に、

約11年ものあいだを開けています。

 

この間に、

管弦楽による組曲というジャンルで、

彼は、4曲(純粋な作曲としては、バレエ音楽と同じく3曲)の

作品を残しました。

 

 

チャイコフスキーが自分のやりたいこと、得意なことをすべて実験して、

そのうえで最高のものを交響曲第5,6番や「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」に発展させていったともいえるでしょう。

 

 

フーガ、ガヴォット、精巧な変奏、多種多様な様式や技巧などを詰め込んでいて、

チャイコフスキーがどのように作曲を極めていったのかを知ることができます。

 

 

ドラゴンボールでいう「修行編」のようなイメージでしょうか。

 

ここで、チャイコフスキーなりの必殺技を磨いていくのです。

 

 

 組曲第1番を作曲したときのチャイコフスキーの状況はこちら!

nmusic.hatenablog.com

 

 

 

チャイコフスキーの「組曲第1番」への思いいれ

 

彼はこの曲について、

「わたしの思い違いでなければ、この作品は早い時期に聴衆に受け入れられ、

人気を得るだろう」と手紙を残しています。

 

いまの私たちから見たら実験曲のようにも見えますが、

当時もてる力のすべてを注ぎ込んだチャイコフスキーにとっては、

 

当時、自信満々の最高傑作でした。

 

 

ひそかにフォン・メック夫人に捧げられたといわれています。

 

この曲が完成した38歳、39歳のときは、

ふたりの仲が急速に燃え上がっていたときでした。

 

 

 

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の面白いエピソード

チャイコフスキーと夫人の奇妙な愛

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人は、

 

やたらと熱い関係でしたが、

 

直接言葉を交わすことはなく、

なんと10年以上、手紙だけの関係でした。

 

 

こちらの記事でくわしく紹介しました。

 

 やや引っ込み思案を克服しきれない時期のチャイコフスキーです。

nmusic.hatenablog.com

 

 大作曲家たちのなかでも1位2位を争うほどの

熱い告白です。

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

 

フォン・メック夫人は会いたがっていた

 

夫人のほうは、

とにかくチャイコフスキーに会いたい!という意味の行動をとるのですが、

 

チャイコフスキーがなかなか心を開きません。

 

というか、

異常なくらい、心のからを閉じていたのです。

 

 

実は、チャイコフスキーは一度だけ

フォン・メック夫人にばったり出くわしたことがあります。

チャイコフスキーの人生の中でも、かなりショッキングな出来事のひとつになったようです。

 

 

夫人に直接会ってしまい、うつ病になる

 

それは、1878年

ちょうどチャイコフスキーが夫人の領地を借りて生活していたころ、

 

彼は出かける途中にばったり夫人に遭遇します。

 

 

彼は帽子をちょっとあげてあいさつすると、

すぐに走り去りました。

 

 

その後、彼はショックで食欲を失い、

眠ることもできなくなり、

 

なんとうつ病になってしまいます。

 

弟にあてた手紙で

「昨日私はヒステリーを起こし、一晩中わめいた」

と書いています。

 

 

チャイコフスキーは、夫人になんらかの迷惑が掛かり、

お金を止められたりすることを恐れたのか、

もしくは、

恥ずかしすぎたのか、

 

複雑な気持ちだったようです。

 

 

嬉しかった夫人

 

フォン・メック夫人はこの出来事の直後、手紙をチャイコフスキーに送りました。

 

「あなたは、私に迷惑をかけたと思って謝っているの?

 

私には、あの出会いは素敵でした。

 

 

どれだけうれしかったことか・・・

 

 

あなたは想像できないのでしょう。」

 

 

夫人はこのあとも、チャイコフスキーとの面会を求めますが、

 

応じないチャイコフスキーに徐々にあきらめるようになります。

 

 

チャイコフスキーの女性関係をまとめました

 

プラトニック、奇妙、純情

 

こういった言葉をはるかにこえたチャイコフスキーらしいエピソード満載です。

 

 

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーの女性関係

チャイコフスキーの女性関係

 

チャイコフスキーに大きな影響を与えた女性は、

 

母親を除くと、

 

 

3人います。

 

 

オペラ歌手

アルトー

 

生涯の悪妻

アントニーナ

 

お金と命の恩人

フォン・メック夫人

 

彼女たちは、

内向的なチャイコフスキーに大きな影響を及ぼしました。

 

 

早すぎる死・チャイコフスキーの母親

 

チャイコフスキーは10代前半のときに母親をコレラで失っています。

 

当時、母親は40歳。

死因のコレラは、チャイコフスキーの死因と同じです。

 

これは当時、法律家になるための勉強をしていたチャイコフスキー

大きな衝撃を与えました。

 

 

元花嫁から友達に・アルトー

 

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーが最初に結婚を考えた女性です。

 

オペラ歌手のアルトーという女性で、

結婚直前までいったときに、劇団の都合でスペインに旅立ち、

結局スペインの歌手と結婚しています。

 

 

チャイコフスキーはこの事件を受け止め、

アルトーとは仲の良い音楽友達として、その後も交流を続けたそうです。

 

彼のこのときの思いは楽曲として残っています。

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

 

悪妻にされた女・アントニーナ

 

nmusic.hatenablog.com

 

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現在の研究では、悪妻ではなかった?とされている女性ですが、

悪妻でないにしても、チャイコフスキーにあまり良い影響を与えてはいなかったようです。

 

彼の自殺の原因になったのが「結婚生活」ですから、

 

彼の作品に大きな影響を与えたことは間違いありません。

 

 

 

そもそも彼女が悪妻とされているのは、

チャイコフスキー自身が「結婚生活は、創造力を枯渇させるだろう」と言い出したことから、

 

後世の人が「アントニーナはチャイコフスキーを不幸にした」というイメージを作り出したことに始まっています。

 

 

つまり、

彼が結婚生活でインスピレーションを傷つけられるくらい繊細すぎたことが原因だといわざるをえないのかもしれません。

 

 

恩人、恋人・フォン・メック夫人

 

彼と夫人との思い出はこちらで詳しく語っています。

 

nmusic.hatenablog.com

 

生涯あうことのなかった、やりすぎた遠距離恋愛とも言われます。

一方、恋愛関係にはなく、お金だけの関係だったという説も。

 

 

 

フォン・メック夫人とチャイコフスキーの恋文②

チャイコフスキーの告白 

 

前回の記事では、

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の愛のやりとりを紹介しました。

そして、チャイコフスキーは引っ込み思案な性格を克服し、

ついに心を夫人に開きます。

nmusic.hatenablog.com

 

 

チャイコフスキー、愛のラブレター

 

「昨晩は、一晩中あなたのことを夢見ました。

 

あなたはとても善良で、

 

わたしの心はあなたのほうへ飛んでいきます。

 

 

なんという幸福でしょう。

 

 

あなたをわが物にしているように感じるのは!!

 

 

・・・・

(長いので中略)

・・・・

 

私がどれほどあなたを愛しているか、

おわかりいただけたでしょうか?

 

これはもう愛ではありません。

崇拝、神格化、賛美なのです!!」

 

 

チャイコフスキー、熱すぎます。

ふだんはこんな思いを曲に託していたのですね。

 

 

フォン・メック夫人の嫉妬

 

夫人は、

チャイコフスキーが結婚生活で悩んでいたときは、

彼を励ます立場でしたが、

 

彼が少しずつ現実を受け入れだすと、

今度は彼の結婚に嫉妬をするようになります。

 

 

「ご存知かしら?

 

私がとても失礼ながら、嫉妬などをするようになったことを・・・

 

あなたが結婚したとき、まるで心臓の一部が切り取られたかのように、

言葉にできない嫉妬に苦しめられたことを・・・

 

 

 

あなたが奥さんと身近な関係でいらっしゃると考えると、

私の心はとても痛んで、苦々しい思いがして、我慢できないほどでした。

 

 

だって、私はだれもあなたをそんなに愛したことがないくらいに愛していて、

 

あなたを世界中のなによりも高く評価しているのですから。

 

 

 

こんなことを聴いても面白くなかったら、

 

心ならずも告白してしまったのをお許しください。

 

 

私は狂気させられました

 

あの交響曲チャイコフスキーが彼女にささげた第4番)のせいです!!」

 

 

 

 

はい、38歳と47歳の男女の恋愛話でした。

 

 

チャイコフスキーの女性関係はわりと薄いという話

 

音楽家のなかでは、チャイコフスキー

恋少なき人でした。

 

かなり内向的な性格も関係しているのでしょう。

 

こちらでそこのあたりをまとめています。