チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

弦楽四重奏曲第3番・チャイコフスキー~さいごの弦楽四重奏

チャイコフスキー弦楽四重奏曲第3番

 

チャイコフスキーは生涯で3つの弦楽四重奏曲を書いていますが、

 

それらは1871年から1876年の間に作られています。

 

31歳から36歳までのわずか5年とちょっとの間に

生涯を代表する音楽を作り上げてしまいました。

 

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一般に「弦楽四重奏」という形式は

彼の音楽性にふさわしくないものだという批判がなされていて、

 

「だからこそ、若いうちに3曲だけ書いて手をつけなかったんだ」

という意見も出てきます。

 

 

実際はどうなのでしょうか?

 

 

 

聴衆に受け入れられる感動作

 

チャイコフスキーの傑作の多くは、

 

というかほとんどの名曲が初演でひどい評価を受けています。

 

 

そして、彼の後半生か、死後になって

ようやく評価されはじめるようになっていました。

 

 

 

この弦楽四重奏曲第3番は、

なんと聴衆に絶賛されます。

 

人気かつ名曲という、

彼の数少ない好評作のひとつです。

 

 

同僚の死を悼む気持ちに全ロシアが泣いた

 

この弦楽四重奏曲第3番は、

 

チャイコフスキーモスクワ音楽院での同僚で、

「ヴァイオリンの巨人」と呼ばれていたラウプ教授に捧げられます。

 

ラウプは弦楽四重奏曲第1番と第2番を初演し、

チャイコフスキーのよき理解者でした。

 

しかし、彼は突然の死を迎えることになります。

 

 

 

チャイコフスキーは自分の親友の死を悼み、この曲をすぐに書き上げました。

 

 

そして、

 

初演は、最高の評価を得ます。

 

特に、第3楽章で聴衆は感動の極みに達し、

 

その場で涙しない者がいないほどだったそうです。

 

 

 

チャイコフスキーも当初はそこまでの自信はないようでしたが、

その聴衆の様子をきいて、

 

「新作の弦楽四重奏曲はもう3回も演奏された。

アンダンテ(第3楽章)で多くの人々が泣いたという。

これが本当なら素晴らしい勝利だ」

 

 

と、手紙を書いています。

 

 

この曲は、作曲から17年後、

チャイコフスキー追悼コンサートのプログラムに入ったほどです。

 

よほどの名曲だったといえるでしょう。