チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

チャイコフスキー28歳・ロシアの音楽に目覚める

チャイコフスキーの流儀

 

チャイコフスキーは、

 

この28歳の年に大きな出会いを果たしました。

 

これは、彼が個人的に感激したオストロフスキーとの出会いよりも

はるかに濃い出会いとなります。

 

 

 

それは、

 

ロシア五人組との出会いです。

 

いきなりいろんな人物が出てきてもごっちゃになると

思うのですが、

 

同じ時代の日本でいえば、

坂本竜馬

 

勝海舟西郷隆盛桂小五郎に出会うようなものです。

 

本当に「時代が動きかねない」ほどの

 

大きな出会いえます。

 

 

 

 

その5人を簡単に紹介すると、

 

 

リムスキー・コルサコフ

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ボロディン

 

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ムスログスキー

 

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バラキレフ

 

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キューイ

 

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彼らは、チャイコフスキー明治維新の志士たちと

同世代です。

 

 

ロシア五人組

反西欧を共通の志としていました。

 

要するに、

ドイツやフランスのように文化的に進んだ国の

音楽を受け入れるかどうか?

 

それよりも、

ロシアの民族的な音楽にも優れたところがあるはずだ!!

 

という考え方を持っていました。

 

 

 

 

一方のチャイコフスキーは、

「あくまでも音楽は音楽としてあるべきで、

思想などはない」という立場。

 

ドイツの洗練された技法も受け入れるが、

ロシアのキレイなメロディも取り入れていきたい。

 

 

 

明治維新

 

「西洋の技術は受け入れるが、

日本の魂は消えない」という「和魂洋才」を合言葉にしましたが、

 

 

チャイコフスキーはそういった新政府の立ち位置です。

 

 

 

一方で、ロシア五人組は武士の生き方。

ロシアの「ラスト・サムライ」として活動をします。

 

 

 

そんな彼らが

若き日に出会います。

 

 

 

チャイコフスキーロシア五人組

 

チャイコフスキーモスクワ音楽院の先生をしていましたが、

 

当時のロシア帝国の首都はサンクトペテルブルグという町です。

 

 

 

このサンクトペテルブルグにも音楽院はもちろんあり、

そこで活動していたのが、ロシア五人組でした。

 

 

 

 

ロシア音楽界の「東京大学」と「京都大学」といっても過言ではないのが

このサンクトペテルブルグとモスクワです。

 

 

チャイコフスキーは、そんなサンクトペテルブルグへ向かうことになります。

 

 

仕事とも、サークル活動の誘いとも言われています。

 

 

 

 

チャイコフスキーロシア五人組にドン引き

 

チャイコフスキーはまだまだ純粋に音楽を作曲する音楽家でした。

 

ロシア風の旋律をよく使うことがあっても、

それは彼の個人的なクセです。

 

 

一方で、ロシア五人組

意図的にロシアの民謡を引用して、

西欧文明とがちがちに対決しようとします。

 

 

ロシア自体がまだまだ文明が発達していない田舎帝国だったので、

そういったコンプレックスもあったのでしょう。

(ロシアが工業的に大発展するのは、もう少し後の時代です。)

 

 

チャイコフスキーは、

そういった五人組の姿勢にさいしょドン引きします。

 

 

そんなに「ロシアロシア~」って感じの曲を

突き詰めなくてよくね?????

と。

 

 

一方の五人組も、

「モスクワの小僧はなにもしらないな」

 

と。

 

 

両者の出会いは前途多難でした。