チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

チャイコフスキー27歳・初のオペラを作曲

チャイコフスキーデンマーク国家による祝典序曲」

 

チャイコフスキーの「デンマーク国家による祝典序曲」は

 

あまりにすごすぎたために、

 

逆に、一般民衆や、

芸術を理解できない人々から

散々にけなされることになりました。

 

 

 

しかしながら、

ときのロシア皇帝チャイコフスキーの努力に感謝し、

 

チャイコフスキーに黄金のカフスボタンを送りました。

 

 

 

 

デビューして最初のころから

皇室に認められるって、

 

今の日本じゃ考えられない所か、

 

世界中見渡してもありえないことです。

 

 

 

 

チャイコフスキーの天才性がよく伝わってくるエピソードです。

 

ちなみに、

チャイコフスキーって、

4年前まで、ただの法律官僚だったんですよ~

今でいう、法務省のノンキャリア組みたいな。

 

そこから、感性とセンスの音楽の世界って、

なかなかない話ですよね。

 

 

 

ノリにノったチャイコフスキー

 

チャイコフスキー

交響曲第1番「冬の日の幻想」と「デンマーク国家による祝典序曲」を書き上げたあと、

 

すぐ次の年に、

 

2つの小品

 

ハープサルの思い出

 

という曲を作曲します。

 

 

どちらも、チャイコフスキーらしさを存分に生かした、

のびのびとした曲に仕上がっています。

 

 

チャイコフスキーはまさに、

やりたいことを仕事にしてうまくいって、

人生ノリノリの時期だったのでしょう。

 

 

 

 

芸術サークルでの出会い

 

チャイコフスキーは生まれ故郷のウクライナ地方を離れて、

 

ただ一人仕事のためにモスクワまで出てきました。

 

 

 

日本でいうと、

沖縄・与那国島から、東京・丸の内まで進出してくるくらい

当時としては、大きな飛躍でした。

 

 

 

当然、友達などいるわけもなく、

知り合いはモスクワ音楽院のニコライ院長先生だけです。

 

 

 

ニコライ先生は、チャイコフスキー

とある芸術サークルに入るように勧めました。

 

 

そのサークルで、チャイコフスキーは多くの仲間を得ることになります。

 

 

 

その一人が、

 

オストロフスキー

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です。

 

チャイコフスキーよりも一回り上で、

 

劇作家として活動していました。

 

 

 

チャイコフスキーは、まだ音楽院の学生だったころから、

オストロフスキーのファンで、

彼のオペラ台本を読み漁っていたそうです。

 

 

 

 

夢の共演:オペラ「地方長官」

 

そんなオストロフスキーの大ファン、チャイコフスキーは、

 

あるとき思い切って彼にオペラを書いてもらうよう頼みます。

 

そして、台本を書いてもらって、

それにチャイコフスキーが音楽をつけるというもので、

 

 

チャイコフスキーにとっては、

身の丈を大きく越えた、夢のような挑戦でした。

 

 

 

 

オストロフスキーの返事はどうだったか。

 

 

彼は、チャイコフスキーの才能を認めて、

まだデビューしたばかりのチャイコフスキーのために、

 

長大な台本を書き上げることを約束します。

 

 

 

崇拝する人が自分のために台本を書いてくれる。

 

 

 

しかし、

 

前途にはとんでもなくアホな展開が待っていました。

さすがに、周りの人、全員でずっこけたそうです。

 

 

その展開とは・・・