チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の面白いエピソード

チャイコフスキーと夫人の奇妙な愛

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人は、

 

やたらと熱い関係でしたが、

 

直接言葉を交わすことはなく、

なんと10年以上、手紙だけの関係でした。

 

 

こちらの記事でくわしく紹介しました。

 

 やや引っ込み思案を克服しきれない時期のチャイコフスキーです。

nmusic.hatenablog.com

 

 大作曲家たちのなかでも1位2位を争うほどの

熱い告白です。

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

 

フォン・メック夫人は会いたがっていた

 

夫人のほうは、

とにかくチャイコフスキーに会いたい!という意味の行動をとるのですが、

 

チャイコフスキーがなかなか心を開きません。

 

というか、

異常なくらい、心のからを閉じていたのです。

 

 

実は、チャイコフスキーは一度だけ

フォン・メック夫人にばったり出くわしたことがあります。

チャイコフスキーの人生の中でも、かなりショッキングな出来事のひとつになったようです。

 

 

夫人に直接会ってしまい、うつ病になる

 

それは、1878年

ちょうどチャイコフスキーが夫人の領地を借りて生活していたころ、

 

彼は出かける途中にばったり夫人に遭遇します。

 

 

彼は帽子をちょっとあげてあいさつすると、

すぐに走り去りました。

 

 

その後、彼はショックで食欲を失い、

眠ることもできなくなり、

 

なんとうつ病になってしまいます。

 

弟にあてた手紙で

「昨日私はヒステリーを起こし、一晩中わめいた」

と書いています。

 

 

チャイコフスキーは、夫人になんらかの迷惑が掛かり、

お金を止められたりすることを恐れたのか、

もしくは、

恥ずかしすぎたのか、

 

複雑な気持ちだったようです。

 

 

嬉しかった夫人

 

フォン・メック夫人はこの出来事の直後、手紙をチャイコフスキーに送りました。

 

「あなたは、私に迷惑をかけたと思って謝っているの?

 

私には、あの出会いは素敵でした。

 

 

どれだけうれしかったことか・・・

 

 

あなたは想像できないのでしょう。」

 

 

夫人はこのあとも、チャイコフスキーとの面会を求めますが、

 

応じないチャイコフスキーに徐々にあきらめるようになります。

 

 

チャイコフスキーの女性関係をまとめました

 

プラトニック、奇妙、純情

 

こういった言葉をはるかにこえたチャイコフスキーらしいエピソード満載です。

 

 

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーの女性関係

チャイコフスキーの女性関係

 

チャイコフスキーに大きな影響を与えた女性は、

 

母親を除くと、

 

 

3人います。

 

 

オペラ歌手

アルトー

 

生涯の悪妻

アントニーナ

 

お金と命の恩人

フォン・メック夫人

 

彼女たちは、

内向的なチャイコフスキーに大きな影響を及ぼしました。

 

 

早すぎる死・チャイコフスキーの母親

 

チャイコフスキーは10代前半のときに母親をコレラで失っています。

 

当時、母親は40歳。

死因のコレラは、チャイコフスキーの死因と同じです。

 

これは当時、法律家になるための勉強をしていたチャイコフスキー

大きな衝撃を与えました。

 

 

元花嫁から友達に・アルトー

 

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーが最初に結婚を考えた女性です。

 

オペラ歌手のアルトーという女性で、

結婚直前までいったときに、劇団の都合でスペインに旅立ち、

結局スペインの歌手と結婚しています。

 

 

チャイコフスキーはこの事件を受け止め、

アルトーとは仲の良い音楽友達として、その後も交流を続けたそうです。

 

彼のこのときの思いは楽曲として残っています。

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

 

悪妻にされた女・アントニーナ

 

nmusic.hatenablog.com

 

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現在の研究では、悪妻ではなかった?とされている女性ですが、

悪妻でないにしても、チャイコフスキーにあまり良い影響を与えてはいなかったようです。

 

彼の自殺の原因になったのが「結婚生活」ですから、

 

彼の作品に大きな影響を与えたことは間違いありません。

 

 

 

そもそも彼女が悪妻とされているのは、

チャイコフスキー自身が「結婚生活は、創造力を枯渇させるだろう」と言い出したことから、

 

後世の人が「アントニーナはチャイコフスキーを不幸にした」というイメージを作り出したことに始まっています。

 

 

つまり、

彼が結婚生活でインスピレーションを傷つけられるくらい繊細すぎたことが原因だといわざるをえないのかもしれません。

 

 

恩人、恋人・フォン・メック夫人

 

彼と夫人との思い出はこちらで詳しく語っています。

 

nmusic.hatenablog.com

 

生涯あうことのなかった、やりすぎた遠距離恋愛とも言われます。

一方、恋愛関係にはなく、お金だけの関係だったという説も。

 

 

 

フォン・メック夫人とチャイコフスキーの恋文②

チャイコフスキーの告白 

 

前回の記事では、

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の愛のやりとりを紹介しました。

そして、チャイコフスキーは引っ込み思案な性格を克服し、

ついに心を夫人に開きます。

nmusic.hatenablog.com

 

 

チャイコフスキー、愛のラブレター

 

「昨晩は、一晩中あなたのことを夢見ました。

 

あなたはとても善良で、

 

わたしの心はあなたのほうへ飛んでいきます。

 

 

なんという幸福でしょう。

 

 

あなたをわが物にしているように感じるのは!!

 

 

・・・・

(長いので中略)

・・・・

 

私がどれほどあなたを愛しているか、

おわかりいただけたでしょうか?

 

これはもう愛ではありません。

崇拝、神格化、賛美なのです!!」

 

 

チャイコフスキー、熱すぎます。

ふだんはこんな思いを曲に託していたのですね。

 

 

フォン・メック夫人の嫉妬

 

夫人は、

チャイコフスキーが結婚生活で悩んでいたときは、

彼を励ます立場でしたが、

 

彼が少しずつ現実を受け入れだすと、

今度は彼の結婚に嫉妬をするようになります。

 

 

「ご存知かしら?

 

私がとても失礼ながら、嫉妬などをするようになったことを・・・

 

あなたが結婚したとき、まるで心臓の一部が切り取られたかのように、

言葉にできない嫉妬に苦しめられたことを・・・

 

 

 

あなたが奥さんと身近な関係でいらっしゃると考えると、

私の心はとても痛んで、苦々しい思いがして、我慢できないほどでした。

 

 

だって、私はだれもあなたをそんなに愛したことがないくらいに愛していて、

 

あなたを世界中のなによりも高く評価しているのですから。

 

 

 

こんなことを聴いても面白くなかったら、

 

心ならずも告白してしまったのをお許しください。

 

 

私は狂気させられました

 

あの交響曲チャイコフスキーが彼女にささげた第4番)のせいです!!」

 

 

 

 

はい、38歳と47歳の男女の恋愛話でした。

 

 

チャイコフスキーの女性関係はわりと薄いという話

 

音楽家のなかでは、チャイコフスキー

恋少なき人でした。

 

かなり内向的な性格も関係しているのでしょう。

 

こちらでそこのあたりをまとめています。

 

 

フォン・メック夫人とチャイコフスキーの恋文①

チャイコフスキーのラブレター

 

 チャイコフスキーとフォン・メック夫人の関係は

いったいどのようなものだったのか?

nmusic.hatenablog.com

 

一応、手紙では恋人のような面があったことがわかります。

 

さらに付け加えると、

夫人は未亡人なので、不倫ではありません。たぶん。

 

チャイコフスキーのフォン・メック夫人への思い

 

30代後半の彼が夫人にあてて書いた手紙より

 

「あなたはわたしが心のすべてを尽くして愛している人間であると申し上げる必要があるのでしょうか?

 

 

私は、いままであなたの魂のように自分に近く、似ていて、私の胸のなかのあらゆる考え、鼓動に敏感に反応する魂と出会ったことがありません。

 

 

あなたの友情は今や私にとって空気のように必要不可欠なものとなりました。

 

 

そして、私が生きている限り、あなたと結ばれていない瞬間はただの一瞬もありません。

 

私の思いがどこに赴こうと、いたるところで離れている友=あなたの姿にぶつかるのです。

 

あなたの愛、同情は私の存在の土台となっていました。」

 

 

「友達」と言っていますが、

告白するのが怖かったので、あえてこのような表現になっていますが、

 

正直バレバレな手紙です。

 

 

相手に距離をとって控えめに書いているように見えて、

 

名だたる作曲家のなかでもかなり熱いラブレターになっています。

 

 

彼は引っ込み思案を克服したのだ

 

フォン・メック夫人は

 

9歳下のチャイコフスキーに「君・僕」という親しい呼び合いをしようと提案するのですが、

 

引っ込み思案な性格のチャイコフスキーは断ります。

 

 

しかし、徐々に気持ちが高まっていったようで、

夫人に心を開いて話すようになっていきました。

 

 

ついに告白のラブレター

 

そして、ついにチャイコフスキー

はっきりと夫人に愛を伝えるようになります。

 

 

フォン・メック夫人とチャイコフスキーのやりとり①

 チャイコフスキーとフォン・メック夫人の出会い

過去記事です。

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーは1876年、

36歳のころから

経済的な不安が強くなり、

その一年後には、なかば強引に結婚させられた悪妻に悩み、

 

 

nmusic.hatenablog.com

 

ついには自殺を考えるまでになっていました。

 

チャイコフスキーの命の恩人

 

チャイコフスキーは離婚をしたかったのですが、

 

妻アントニーナが財産を多く持っていてそれに支えてもらっていたこと、

 

さらに、アントニーナがなかなか別れさせてくれなかったこともあり、

 

 

うつ病になってしまいます。

 

 

 

そんなおり、

 

チャイコフスキーの文通相手のフォン・メック夫人が

その窮状を察します。

 

 

そして、チャイコフスキーにこう手紙を出します。

 

「年1000万円くらい送ってあげるから、もっと楽にやりなさいよ」

 

 

この条件にチャイコフスキーは復活します。

 

 

送ってもらったお金があれば、

妻に経済的に依存することなく、

自由に暮らせます。

 

さらに、大好きな旅行もできます。

 

 

 

チャイコフスキーの作曲活動はここから再開するのです。

 

 

まさに、自殺の淵からチャイコフスキーを救った命の恩人、

それがフォン・メック夫人なのです。

 

 

14年間、1回も直接言葉を交わさなかった女性

 

この二人は、このあといろんな関係になっていくのですが、

 

その間、1回も会うことがありませんでした。

 

 

 

経済援助を続けたのが14年間で、

その間、一度も直接言葉を交わしてはいません。

 

 

二人は意識的にそうするようにきめていたようですが、

いったいなぜなのかは謎のままです。

 

 

ここから、二人がどのような間柄だったのかもあやふやになってしまい、

恋人なのか、友達なのか、ただの財布と音楽マシーンの関係だったのか、

いまだによくわかっていません。

 

 

フォン・メック夫人は、チャイコフスキーの恋人なのか?

 

しかし、手紙を見る限りではものすごい熱い恋人のような関係を醸し出しています。

 

それを下の記事で検証しました。

 

チャイコフスキーの変わったライフスタイル

精神治療=旅行と作曲

 

チャイコフスキーの精神治療というと堅苦しいので、

 

うつ病メンタルヘルスといいましょう。

 

 

彼にとって、それは作曲と旅行でした。

 

 

彼はこの時期、

メック夫人からの年金を使って、自由すぎる生活をします。

 

 

激動の3年間を越えた休息の時期です。

 

時代は1878年。38歳の後半になります。

 

 

 

「作曲」これまで以上に自由なアイデアを駆使する

 

これは、チャイコフスキー組曲第1番」で詳しく説明しています。

 

彼はこのじき、交響曲タイプの作曲家になるか、

もしくはバレエ音楽や歌劇タイプの作曲家になるか悩んでいました。

 

 

 

どちらを書いても、自分の納得のいく作品になるところ、

 

 

交響曲のような形式的で構成力がものをいう音楽家として生きるか、

 

それとも持ち前のメロディ能力を生かして自由な音楽ジャンルで活躍するか。

 

 

ちょうど迷いながら作曲してるため、

この時期の作品には彼がもっているはずのキレや思い切りがみられません。

 

 

 

「旅行」ひとつのところに長く滞在すると飽きる

 

チャイコフスキーは作曲のほかに、

 

旅行で気分転換をすることで、

うつ病改善をはかっていました。

 

 

フォン・メック夫人がウクライナの別荘を紹介してくれたり、

妹のところにあそびにいったり、

スイスの湖近くに暮らしたりしますが、

 

 

チャイコフスキーは田舎が好きな一方、

あんまりひとつのところに長く滞在することが苦手だったようです。

 

 

そのため、

 

オペラを見に、ドイツ・オーストリア・フランスの都市を回ったり、

 

寒さを避けるために南国イタリアに向かったり、

 

 

とにかくいろんなところを飛び回っていました。

 

 

ちなみに、家は引き払っているので、

実質、お金持ちホームレスです。

 

 

ロシアに帰ってきたときは

 

モスクワ、ペテルブルク、キエフにいる親戚の家や友達の家に

転がり込みます。

 

さらに、フォン・メック夫人に家を貸してもらったりします。

 

 

 

 

 

フォン・メック夫人との珍ルール

 

奇妙なことに、

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の間にはルールがあって、

 

そのひとつは、

 

「お互い直接会ってはいけない」

 

というものでした。

 

 

「????」となるルールですが、

ふたりの間に何があったのでしょうか?

 

 

続きます。

チャイコフスキー自身が書いた”仕事の流儀”

激動の3年間をこえたチャイコフスキー

 

チャイコフスキー

 

フォン・メック夫人の援助と

数々の名曲のおかげで、

 

結婚生活の苦悩と

自殺のどん底からすこしずつ立ち直っていきました。

 

 

いまだに悩みも多いものの、

それを心のなかで飼いならす術や、音楽に昇華することを学びます。

 

1878年の春には田舎で休息をとりながらも、

あいかわらず、旅行と仕事に明け暮れる日々をおくる、

いつもどおりのチャイコフスキーに戻ります。

 

 

チャイコフスキー”仕事の流儀”

 

そんなチャイコフスキーは、

 

仕事の流儀をフォン・メック夫人にあてて書いています。

 

 

1878年夏、

ちょうどスイスで

ヴァイオリン協奏曲を書いている時の手紙です。

 

 

「ひとつの計画をたてるやいなや、

すっかり完成させるまで休むことなく働き続けます。

 

そして、それが完成すると、

 

新しい作曲をはじめたいという我慢できない衝動を感じるのです。

 

 

私にとって仕事は呼吸のための空気のようなものです。

 

仕事をしないでのらりくらりしていると、

憂鬱な気分が勝ってきて、完全性という高みまで達することができるのか、と

 

自分の能力に疑いが兆してきます。

 

 

さらに、自分自身に不満になり、

 

それどころか、自分を憎みだします。」

 

 

つまり、

常にあたらしく仕事をしつづけていないと、

自分のなかの暗いうつのような部分がでてきてしまう、

 

それを克服できるのは仕事をしているときだけだ!

 

というわけです。

 

 

 

 

続きます。

 

 

仕事はチャイコフスキーにとってなくてはならないもの

 

「・・・わたしは非常に憂鬱になる傾向がある。

 

それに、楽をしようという欲望に負けてはいけない、ということも知っています。

 

 

仕事だけがわたしを唯一救うことができるのです。」

 

 

 

チャイコフスキーの奇妙な生活スタイル

 

激動の3年をこえたチャイコフスキーは、

 

いったん休憩のような形に入ります。

 

もちろん作曲は精力的になりますが、

 

一風変わったライフスタイルをとるようになるのです。