チャイコフスキーの生涯をわかりやすくまとめた

チャイコフスキーの生涯をわかりやすく解説します。

フォン・メック夫人とチャイコフスキーの恋文①

チャイコフスキーのラブレター

 

 チャイコフスキーとフォン・メック夫人の関係は

いったいどのようなものだったのか?

nmusic.hatenablog.com

 

一応、手紙では恋人のような面があったことがわかります。

 

さらに付け加えると、

夫人は未亡人なので、不倫ではありません。たぶん。

 

チャイコフスキーのフォン・メック夫人への思い

 

30代後半の彼が夫人にあてて書いた手紙より

 

「あなたはわたしが心のすべてを尽くして愛している人間であると申し上げる必要があるのでしょうか?

 

 

私は、いままであなたの魂のように自分に近く、似ていて、私の胸のなかのあらゆる考え、鼓動に敏感に反応する魂と出会ったことがありません。

 

 

あなたの友情は今や私にとって空気のように必要不可欠なものとなりました。

 

 

そして、私が生きている限り、あなたと結ばれていない瞬間はただの一瞬もありません。

 

私の思いがどこに赴こうと、いたるところで離れている友=あなたの姿にぶつかるのです。

 

あなたの愛、同情は私の存在の土台となっていました。」

 

 

「友達」と言っていますが、

告白するのが怖かったので、あえてこのような表現になっていますが、

 

正直バレバレな手紙です。

 

 

相手に距離をとって控えめに書いているように見えて、

 

名だたる作曲家のなかでもかなり熱いラブレターになっています。

 

 

彼は引っ込み思案を克服したのだ

 

フォン・メック夫人は

 

9歳下のチャイコフスキーに「君・僕」という親しい呼び合いをしようと提案するのですが、

 

引っ込み思案な性格のチャイコフスキーは断ります。

 

 

しかし、徐々に気持ちが高まっていったようで、

夫人に心を開いて話すようになっていきました。

 

 

ついに告白のラブレター

 

そして、ついにチャイコフスキー

はっきりと夫人に愛を伝えるようになります。

 

 

フォン・メック夫人とチャイコフスキーのやりとり①

 チャイコフスキーとフォン・メック夫人の出会い

過去記事です。

nmusic.hatenablog.com

 

チャイコフスキーは1876年、

36歳のころから

経済的な不安が強くなり、

その一年後には、なかば強引に結婚させられた悪妻に悩み、

 

 

nmusic.hatenablog.com

 

ついには自殺を考えるまでになっていました。

 

チャイコフスキーの命の恩人

 

チャイコフスキーは離婚をしたかったのですが、

 

妻アントニーナが財産を多く持っていてそれに支えてもらっていたこと、

 

さらに、アントニーナがなかなか別れさせてくれなかったこともあり、

 

 

うつ病になってしまいます。

 

 

 

そんなおり、

 

チャイコフスキーの文通相手のフォン・メック夫人が

その窮状を察します。

 

 

そして、チャイコフスキーにこう手紙を出します。

 

「年1000万円くらい送ってあげるから、もっと楽にやりなさいよ」

 

 

この条件にチャイコフスキーは復活します。

 

 

送ってもらったお金があれば、

妻に経済的に依存することなく、

自由に暮らせます。

 

さらに、大好きな旅行もできます。

 

 

 

チャイコフスキーの作曲活動はここから再開するのです。

 

 

まさに、自殺の淵からチャイコフスキーを救った命の恩人、

それがフォン・メック夫人なのです。

 

 

14年間、1回も直接言葉を交わさなかった女性

 

この二人は、このあといろんな関係になっていくのですが、

 

その間、1回も会うことがありませんでした。

 

 

 

経済援助を続けたのが14年間で、

その間、一度も直接言葉を交わしてはいません。

 

 

二人は意識的にそうするようにきめていたようですが、

いったいなぜなのかは謎のままです。

 

 

ここから、二人がどのような間柄だったのかもあやふやになってしまい、

恋人なのか、友達なのか、ただの財布と音楽マシーンの関係だったのか、

いまだによくわかっていません。

 

 

フォン・メック夫人は、チャイコフスキーの恋人なのか?

 

しかし、手紙を見る限りではものすごい熱い恋人のような関係を醸し出しています。

 

それを下の記事で検証しました。

 

チャイコフスキーの変わったライフスタイル

精神治療=旅行と作曲

 

チャイコフスキーの精神治療というと堅苦しいので、

 

うつ病メンタルヘルスといいましょう。

 

 

彼にとって、それは作曲と旅行でした。

 

 

彼はこの時期、

メック夫人からの年金を使って、自由すぎる生活をします。

 

 

激動の3年間を越えた休息の時期です。

 

時代は1878年。38歳の後半になります。

 

 

 

「作曲」これまで以上に自由なアイデアを駆使する

 

これは、チャイコフスキー組曲第1番」で詳しく説明しています。

 

彼はこのじき、交響曲タイプの作曲家になるか、

もしくはバレエ音楽や歌劇タイプの作曲家になるか悩んでいました。

 

 

 

どちらを書いても、自分の納得のいく作品になるところ、

 

 

交響曲のような形式的で構成力がものをいう音楽家として生きるか、

 

それとも持ち前のメロディ能力を生かして自由な音楽ジャンルで活躍するか。

 

 

ちょうど迷いながら作曲してるため、

この時期の作品には彼がもっているはずのキレや思い切りがみられません。

 

 

 

「旅行」ひとつのところに長く滞在すると飽きる

 

チャイコフスキーは作曲のほかに、

 

旅行で気分転換をすることで、

うつ病改善をはかっていました。

 

 

フォン・メック夫人がウクライナの別荘を紹介してくれたり、

妹のところにあそびにいったり、

スイスの湖近くに暮らしたりしますが、

 

 

チャイコフスキーは田舎が好きな一方、

あんまりひとつのところに長く滞在することが苦手だったようです。

 

 

そのため、

 

オペラを見に、ドイツ・オーストリア・フランスの都市を回ったり、

 

寒さを避けるために南国イタリアに向かったり、

 

 

とにかくいろんなところを飛び回っていました。

 

 

ちなみに、家は引き払っているので、

実質、お金持ちホームレスです。

 

 

ロシアに帰ってきたときは

 

モスクワ、ペテルブルク、キエフにいる親戚の家や友達の家に

転がり込みます。

 

さらに、フォン・メック夫人に家を貸してもらったりします。

 

 

 

 

 

フォン・メック夫人との珍ルール

 

奇妙なことに、

 

チャイコフスキーとフォン・メック夫人の間にはルールがあって、

 

そのひとつは、

 

「お互い直接会ってはいけない」

 

というものでした。

 

 

「????」となるルールですが、

ふたりの間に何があったのでしょうか?

 

 

続きます。

チャイコフスキー自身が書いた”仕事の流儀”

激動の3年間をこえたチャイコフスキー

 

チャイコフスキー

 

フォン・メック夫人の援助と

数々の名曲のおかげで、

 

結婚生活の苦悩と

自殺のどん底からすこしずつ立ち直っていきました。

 

 

いまだに悩みも多いものの、

それを心のなかで飼いならす術や、音楽に昇華することを学びます。

 

1878年の春には田舎で休息をとりながらも、

あいかわらず、旅行と仕事に明け暮れる日々をおくる、

いつもどおりのチャイコフスキーに戻ります。

 

 

チャイコフスキー”仕事の流儀”

 

そんなチャイコフスキーは、

 

仕事の流儀をフォン・メック夫人にあてて書いています。

 

 

1878年夏、

ちょうどスイスで

ヴァイオリン協奏曲を書いている時の手紙です。

 

 

「ひとつの計画をたてるやいなや、

すっかり完成させるまで休むことなく働き続けます。

 

そして、それが完成すると、

 

新しい作曲をはじめたいという我慢できない衝動を感じるのです。

 

 

私にとって仕事は呼吸のための空気のようなものです。

 

仕事をしないでのらりくらりしていると、

憂鬱な気分が勝ってきて、完全性という高みまで達することができるのか、と

 

自分の能力に疑いが兆してきます。

 

 

さらに、自分自身に不満になり、

 

それどころか、自分を憎みだします。」

 

 

つまり、

常にあたらしく仕事をしつづけていないと、

自分のなかの暗いうつのような部分がでてきてしまう、

 

それを克服できるのは仕事をしているときだけだ!

 

というわけです。

 

 

 

 

続きます。

 

 

仕事はチャイコフスキーにとってなくてはならないもの

 

「・・・わたしは非常に憂鬱になる傾向がある。

 

それに、楽をしようという欲望に負けてはいけない、ということも知っています。

 

 

仕事だけがわたしを唯一救うことができるのです。」

 

 

 

チャイコフスキーの奇妙な生活スタイル

 

激動の3年をこえたチャイコフスキーは、

 

いったん休憩のような形に入ります。

 

もちろん作曲は精力的になりますが、

 

一風変わったライフスタイルをとるようになるのです。

 

 

 

チャイコフスキーの史上最大の業績とは?

チャイコフスキーがした史上最大の業績

 

チャイコフスキー

ロシア音楽界でさまざまなナンバーワンの座を得ていて、

 

ロシアで初の本格的なピアノソナタ「グランド・ソナタ

 

 

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ロシアで初の本格的な交響曲

 

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そのほかにも、

ロシア音楽を一流の音楽にまで育て上げました。

 

 

 

 

 そのなかでも、

古今東西まれに見る働きをしています。

 

それがバレエ音楽のジャンルです。

 

 

バレエ音楽でのすごすぎる実績

 

 

バレエ音楽チャイコフスキー

 

生涯に3つしか書かず、

 

その3つが全てチャイコフスキー史上の傑作で、

 

さらに3つがそのまま世界3大バレエになる、

 

 

という歴史上ほかにないような業績を残した分野です。

 

 

 

 

彼自身の音楽性は、当時からものすごい評価されていましたが、

 

 

バレエ踊りのほうがまだまだ技術が未発達だったのと、

聴衆の意識がまだ古いバレエにあったために

 

なかなか理解されませんでした。

 

くるみ割り人形は、クリスマスの代名詞として、初演から親しまれてきましたが、

それでも評判がよくない時期が続きました。)

 

 

若いときに「白鳥の湖」が大不評になったことで、

ショックを受け、「もうバレエ音楽、書かん!!」と

拗ねてしまいました。

 

 

そして、もういちど勇気を出して書いてみたのが10年以上たったときで、

彼の最後の5年弱の間に書いた「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」です。

 

 

初演はそこまでヒットせず、

ちゃんと認められる前にチャイコフスキーが突然死したため、

 

 

彼がもう少し長生きしていれば、

世界5大バレエ、7大バレエといった呼び方ができて、

それらの座をすべてゲットしていたかもしれません。

 

 

 

 「白鳥の湖

 

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なつかしい土地の想い出・チャイコフスキー、メック夫人との思い出のこと?

「なつかしい土地の想い出」チャイコフスキー

「なつかしい土地の想い出」は、1878年

 

彼が、復活の年38歳のときに書いたヴァイオリンとピアノのための曲です。

 

 

このときは、スイスに滞在していて、

ヴァイオリン協奏曲を書き上げているところでした。

 

 

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「なつかしい土地の想い出」の第1楽章には、

 

ヴァイオリン協奏曲の第2楽章にするはずだった「瞑想曲」をもらってきています。

 

 

名曲の弟として誕生したといえるでしょう。

 

 

チャイコフスキーのヴァイオリン曲には

「憂鬱なセレナード」「ワルツ・スケルツォ」などがありますが、

どれも傑作として知られています。

美しいメロディがありながら、暗い影を持ち合わせた深みが特徴の曲たちです。

 

 

 

 

 

なつかしい土地ってどこ??

 

「なつかしい土地」とはどこなのか?

 

 

筆まめチャイコフスキーにしては珍しく、

彼はそれを書き残していませんし、

 

現在の研究でもどこであったかは意見がはっきりしません。

 

 

この曲はスイスからロシアに帰ってきてから完成させたので、

題名を最後につけるときに

「スイスなつかしいな~」と思ってつけたとか、

 

 

彼の大好きなウクライナに近いブライロフという田舎町があって、

 

そこはフォン・メック夫人の領地だったため、

休暇のあいだ、使わせてもらったりしました。

 

このときに曲を書いた形跡もあるので、

 

「ブライロフなつかしいな~」

そのときの思い出を思い出したとも言われています。

 

 

ミステリアスなメック夫人に関係するエピソードは珍しいので、

ファンとしては少しだけテンションがあがる曲です。

 

 

チャイコフスキー唯一のヴァイオリンとピアノ曲

 

チャイコフスキーは、

ピアノとオーケストラを得意としていたのですが、

 

一方でヴァイオリンにはそこまで突っ込んでいません。

 

 

ヴァイオリン協奏曲という代表作こそあれ、

 

 

ヴァイオリン曲自体は全部で4つしかつくっていませんし、

 

ヴァイオリンとピアノのための曲は

「なつかしい土地の思い出」だけです。

 

チャイコフスキーの充電期間

 

この曲は、自殺まで考えたチャイコフスキー激動の3年間をのりこえたあとに

書かれています。

 

そのときチャイコフスキーは田舎で休息の日々を送りました。

 

 

そして、その充電期間を経て、

のちの大仕事に取り掛かります。

 

 

 

 

 

ヴァイオリン協奏曲④チャイコフスキー・魅力と聴きどころ

「ヴァイオリン協奏曲」チャイコフスキー

一言でいうと、

時代がついていけなかった偉大な曲です。

どれくらい進んでいたかは①~③をご覧ください。

 

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チャイコフスキー

結婚生活から逃れるために、妹の家であるウクライナや、果てはスイスまで出てきていました。

 

スイスのレマン湖

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この美しい湖のほとりで、

結婚生活の苦痛から解放されながら書いたので、

 

全体的にのびやかな印象の曲です。

あんまり精神的な深みを表してるような気がしません。

 

 

この曲は

ラロの「スペイン交響曲」を聴いて、

そこからインスピレーションを得ています。

 

民族的な心や、演出上の効果に重きを置いて作曲をしたといわれています。

 

 

とはいっても、絶望からの復活という当時のこころを映すように、

非常にエネルギーにあふれた情熱的な雰囲気が持ち味の曲に仕上がりました。

 

 

彼の情熱については

「グランド・ソナタ」のほうで解説したので、

 

nmusic.hatenablog.com

 

 

今回はヴァイオリン協奏曲を音楽技術からみて解説します!

 

 

第1楽章、美しさと迫力は一品!

 

第1主題は、オペラ「カルメン」の終幕、ホセの歌うメロディを活用しています。

 

チャイコフスキーは作曲者のビゼーがだいすきでした。

 

 

そして、第2主題は、麗しい旋律。希望を感じるテーマです。

 

 

展開部に入ると、

エネルギーあふれる曲調になります。

 

 

第1主題はポロネーズのリズムを伴い、オーケストラに合わせて歯切れよく登場します。

ここで、技術的に難しいカデンツァが現れます。

 

この部分はとにかく汗握る場面です。

 

 

最後に

フルートが第1主題を奏でて、再現部に入ります。

 

 

そして、再現部では、2つの主題を華麗に壮大に表現します。

 

 

第2楽章、感傷にひたるロマンの歌

 

感傷的な第2楽章です。

 

悲しげであこがれに満ちた主要主題。

 

感情の起伏が豊かな中間部主題。

 

 

この2つの材料をもとにして、

ヴァイオリンが豊かな歌を披露します。

 

 

 

チャイコフスキーは当初、「瞑想曲」をおくことを考えていたようですが、

計画を変更し、

「瞑想曲」は「懐かしい土地の思い出」の第1楽章になります。





第3楽章、強烈な舞曲!

 

強烈なトレパック風のリズムに乗り、

情熱的な音楽が繰り広げられます。

 

技巧的にも高度なものが求められるヴァイオリンは

活気にみちた演奏を魅せます。

 

そして、最後は、激しく熱狂的なもりあがりのうちに終わります。